山本昌選手について
山本昌選手は1983年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズにドラフト5位で指名されて入団しました。
山本選手自身はプロ野球に入れると考えておらず当初は大学に進学する事を考えていました。
しかし中日ドラゴンズに指名されて高校時代の監督に激励を受けた事や父親が大のドラゴンズファンだった事でプロ入りを決断しました。
プロ入りから1年目と2年目のシーズンは1軍での登板がなかったもののプロ入りから3年目の1986年に初めて1軍で登板しました。
初登板を果たした翌年の1987年は開幕から1軍に入りましたが、シーズンは始まってすぐの4月に肘の怪我で2軍に落ちるとそのまま1987年シーズンは1軍で登板する事はありませんでした。
翌1988年には山本選手を含めて数人の若手選手が業務提携していたロサンゼルスドジャースに交換留学が行われて山本選手はそのままアメリカに残る事になりました。
このアメリカ留学が山本昌選手のプロ野球人生を大きく変える事になります。
留学先で出会ったのは山本選手が師と仰ぐアイク生原氏でアイク生原氏からの指導によって技術的にも精神的にも鍛えられる事になります。
この留学時に取得した変化球が山本昌選手のウイニングショットとして有名なスクリューボールでした。
山本選手はシーズン中に留学先から帰国すると投手陣が不足していた事から先発のローテションに加わっていきなり5連勝する活躍を見せました。
その結果チームはリーグ優勝を果たして山本選手は日本シリーズで初登板を果たしました。
日本シリーズでの初登板は西武ライオンズとの日本シリーズの第3戦で工藤公康と投げ合いましたが、敗戦投手となりました。
チームも日本シリーズで1勝4敗と負け越して日本一を逃してしまいます。
勝ち星を重ねていった
この翌年は前年シーズン後半の活躍から期待されてシーズンに入っていき1軍で順調に勝ち星を重ねていきました。
しかしシーズン途中から勝てなくなっていき9勝目を挙げてから長い間勝てずにいました。
9月の阪神タイガース戦が最後のチャンスと言い渡されて登板しましたが、終盤に味方が逆転されて10勝目とはならず再びアメリカへの留学に向かいました。
1990年のシーズンには自身初の二桁勝利を挙げましたが、1991年のシーズンは調子を落として2年連続の二桁勝利を逃してしまいました。
1992年には恩師であったアイク生原氏が亡くなって山本選手は精神的に大きなショックを受けたものの1992年シーズンはこれを乗り越えて自身最多の13勝を挙げる活躍をしました。
この翌シーズンには17勝を挙げて最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得すると年俸も初の1億円を突破してプロ野球を代表する投手の一人となりました。
1994年のシーズンはさらに成績を上げて19勝を挙げて2年連続の最多勝と沢村賞を受賞しました。
しかしこの次の1995年には怪我もあって思うような投球ができずに6年連続で続いていた規定投球回も途切れてしまいました。
1990年代後半は1997年に18勝を挙げて3回目の最多勝と初の最多奪三振のタイトルを獲得したもののそれ以外のシーズンでは二桁勝利は達成できませんでした。
2000年代前半にはタイトルこそ獲得できなかったものの3度二桁勝利を挙げるなど先発ピッチャーとして安定した成績を残しています。
2000年代後半には山本選手は40歳を超えてきますが、1軍で活躍を続けます。
2006年には9月16日の阪神タイガース戦でノーヒットノーランを達成しました。
41歳1カ月での達成で史上最年長での達成でした。
2006年シーズンは41歳ながらノーヒットノーランだけでなく、11勝を挙げて二けた勝利を達成して規定投球回数も達成しています。
数々の記録を残した
その後2008年には通算200勝を挙げて名球会入りを果たすとこのシーズンは11勝を挙げて史上最年長での二桁勝利を記録しました。
さらにこの年に史上最年長での完投勝利や最年長での月間MVPも受賞しています。
2010年以降は年齢も40代後半に入ってきて以前のように規定投球回をクリアして二桁勝利を挙げるような活躍はありませんでしたが、2010年から2015年までの間に14勝を挙げる活躍をしました。
2014年には49歳でプロ野球の最年長勝利を記録してラストシーズンの2015年は50歳での登板を果たしています。
50歳まで日本プロ野球で現役を続けて試合に出場した選手は山本昌選手以外にはいません。
プロ野球での実働も高卒からプロして29年でこれもプロ野球で歴代最長の記録です。
その他にも1988年から2010年まで継続した23年連続勝利の記録も歴代で最長の記録です。
※山本昌さんの事務所について・・・http://yamamotomasa34.com/contact.html
山本選手は全盛期には沢村賞をはじめ最多勝や最終防御李など投手の主要タイトルを何度も取る活躍をしましたが、非常に寿命の長い選手で数々の最年長記録も打ち立てた記録にも記憶にも残る選手でした。
現役を退いた2015年シーズン以降は野球の解説者として活躍の場を移しています。
最終更新日 2025年5月24日 by emilyk